(2003年1月 国際教育交流協会ニュースレター No.61より)
山崎編集長 榛葉さんは2001年の参議院選挙に34歳で当選されたのですね。
榛葉 26歳で菊川町議会議員に当選した後、町長選に挑戦、「次点」で涙を飲んだ後の参議院選挙でした。
山崎 政治への関心はいつごろから持たれたのですか。
榛葉 中学高校時代は野球少年でいわゆる体育会系でしたが、当時から中東紛争の報道になぜか関心を持っていました。何であんな悲惨な事が続いているのだろうって。
山崎 その事と進路に関係があるのですか。
榛葉 高卒後すぐアメリカに留学したのは日本の学歴主義に対する反発からです。有名大学の肩書きだけでどうにかなるのはおかしいと。野球ばかりして、ろくに受験勉強もしていなかったですが、高2の時受けたTOEFLで450点取れたのもあって留学したいと両親に言ったのです。アメリカへ行って同じスタートラインからやってみようと思ったのです。でも、家族からは大反対されました。ところが、意外なことに父親だけが許してくれたのです。
■厳しい父が許してくれた留学
父はものすごく厳しい人で、私が5歳のとき、兄弟3人に牛乳配達をするように命じたのです。姉が11歳、兄が8歳の時でした。私が虚弱体質で消極的な性格だったので鍛えなければということだったのでしょう。でも、小学校に上がる前の子供ですから大変でした。8年間毎朝続けていましたが、中学生になった時、学校の先生からアルバイトは禁止だと注意を受けました。それで、牛乳配達から卒業できたわけです。すごい開放感でしたよ。この時は校則がありがたかったですね。アルバイトのお金は一銭も手をつけずに貯金してあって、両親からその通帳を手渡された時は、親の愛情を感じました。月々は僅かですが長かったですからそれなりの金額でした。それでも、「仕送りは最小限だぞ」と言われて・・・、やはり、親父は厳しい。
山崎 オハイオ州のオタバイン大学に留学されたのですね。
榛葉 1年間英語を学んで大学の授業を本格的に始めたのは2年目です。仕送りが少なかったので日本食のレストランでアルバイトをしました。正式な労働は許されていませんでしたから雇ってくれるところは限られているのです。それに、レストランは食事にありつける。貧乏学生にとってはありがたい。でも、5時間のアルバイトを終えて学生寮に戻ると真夜中ですから同室の学生は寝ています。それでも宿題や、予習をしなければならないのでベッドの中で毛布をかぶって懐中電灯で勉強しました。おかげで2.0あった視力が卒業する時は0.01まで落ちてしまいましたけれどね。
■ 留学したら先ず語学をマスター
山崎 日本の高校からアメリカの大学へ直接入学して授業についていくのは並大抵の努力ではないでしょうね。
榛葉 留学生は、1年もしないうちに二極に分かれてしまいますね。猛勉強して言葉の壁を乗り越える学生とそうでない学生です。言葉がわからなければ必然的に授業からも遠のいていきます。言葉の壁を越えるのは大変ですが、これをクリアーすれば何とかなります。私は大学では日本人だということを明かさず、日本人とは会わないようにして英語漬けの環境を作りました。アルバイトに時間をとられていたので必死で勉強しましたよ。そんな様子を見ていたアメリカ人の学生達がなにくれとなく私の面倒を見てくれるようになったのです。
■ 必死で勉強したからこそ出来た親友
特に、学生寮の責任者で1年先輩のブライアンは、自分の勉強をする前に私の勉強を手伝ってくれました。その結果、こちらはAを取っているのに、ブライアンはBなんて事がしばしばあったのですよ。参議院議員として久しぶりにオタバインに行って、州政府の道路局長になっているブライアンと数日間を共にして飲み明かしましたが、「お前の必死に勉強している姿を見て自分もやらなければと思ったアメリカ人の学生がたくさんいたのだ。俺もその一人だ。」なんて言ってくれたのには感激しました。
山崎 それなのに3年でイスラエルに留学したのはなぜですか。
榛葉 オタバイン大学で政治学を専攻したのですが、それは高校生のころ関心を持った中東について学びたいという気持ちからです。2年間政治学を学んで中東問題の理解も深まったのですが、なんといっても現地で学ぶ方が良いに決まっています。それと、経済的な理由。奨学金制度を調べたら、イスラエルのテルアビブ大学にオーバーシー・スチューデント・プログラムというのがあって、これなら格安で勉強できる。本来は、海外のユダヤ人を対象にした制度らしいのだけれど合格してしまった。
山崎 また、新しい環境での挑戦ですね。
榛葉 ところが、ヘブライ語がすーっとはいってきたのですね。くねくねした文字を右から書くことも知らなかったのですが、これが英語より相性が良い。私は吃音の癖があるのですがヘブライ語だとそれが出ないのです。結局、大学院もエルサレム・ヘブライ大学で学びました。
山崎 吃音とおっしゃいますが全く感じませんね。
榛葉 今はほとんどないですがアメリカ留学当時はまだかなり気になっていました。実はそのことを、オタバイン大学一年生の時、Dr.ラバックという教授に相談した事があるのです。Dr.ラバックの政治学の試験で50点しか取れない。落第点ですよ。こちらは貧乏学生でアルバイトをしていますから、4時間の睡眠を3時間に削って試験に臨むのですが、歯が立たない。そこで、Dr.ラバックのところへ行ってどうしたらいいのでしょうと相談したのです。
■ 障害でなく個性、違いを認めてこその国際関係
相談しているうちに、英語も大変だし、黄色人種の苦労もある。言葉の癖もハンディだし、と弱音を吐いてしまった。Dr.ラバックは盲目の教授なのですが、こうおっしゃった。「私は目が見えないけれど、学生が教室でカンニングしていれば察しがつくよ。目が見えないことをハンディキャップだと思ったことはない。でも、人はそれぞれ色々な特性を持っている。走るのが速い人もいれば遅い人もいる。それを、上とか下とか言う必要はないし、皆が同じになる必要もない。それぞれの個性を生かしていけば良い。社会福祉や障害者問題を考えるときの基本だ。私は、政治学を教えているけれど、国際関係でも同じことが言えると思っている。それぞれの違いを認め合う事が国際性を獲得する基本だ。肌の色や、吃音の癖をハンディキャップだと思う必要はない。」これを聞いて引っ掛かっていたものが取れたような気がして、言葉の問題が気にならなくなりました。それに、話す事が苦手だと思っていたから聞き上手になっていた自分にも気が付いた。全てを自分の個性として受け入れられたのでしょう。
山崎 得がたい出会いですね。
榛葉 親友のブライアン、Dr.ラバック、テルアビブ大学のエフド・ハラリ教授、留学を通じて本当に素晴らしい人達と出会うことができました。特に、ブライアンとは家族ぐるみの付き合いです。私の7歳の娘とブライアンの息子の友達付き合いも始まっています。
山崎 榛葉さんの真剣に学ぶ姿勢がたくさんの人達を招き寄せたのですね。
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